初代 應天堂醫院は1880年、五日市の地に、初代院長 千葉吾一 によって開かれました。
千葉は、宮城県に続く医家の15代目として医業を継ぐ一方、憲政史上に名を残す五日市憲法草案の起草者に名を連ねるなど社会問題に強い関心を示しました。
後に東京へ出た彼は、慈恵会医科大学の設立に関わり、また逗子市に病院を開くかたわら、逗子開成中学の校主をつとめるなど一貫して社会に奉仕する姿勢を貫きました。


院内に掲げられた應天堂醫院の扁額は幕末の書家 山岡鉄舟 の筆になるものです。
「應天」は天命に応じること、現代の言葉でおきかえれば「医療の社会的使命を貫く」精神をあらわしたものです。
千葉の孫に当たる現院長 大庭義人 は、地域共同体に奉仕する医学の社会的使命を現すものとして、「應天堂」の名を継承しました。